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実世界指向インターフェースが実現するシンプルで豊かな「長屋の生活」

慶應義塾大学 環境情報学部 教授 増井 俊之 氏

※慶應義塾大学 環境情報学部 教授 増井 俊之 氏

仕事で人と会う機会が多い方もそうでない人も、ビジネスに欠かすことのできないIT業界にはいろんな方が関わっています。技術に秀でた人からコミュニケーション力の高い人まで、そのプロフェッショナルなスキルは千差万別。でも、そこにはやっぱり “人”がいるのです。そんなIT業界で働くプロフェッショナルな人々にスポットを当て、技術と人の交わりを再発見する「インタビュー」コーナー。普段の仕事内容はもちろん、IT業界で働き始めたきっかけや仕事における驚きのエピソード、オフの過ごし方や家族に対する思いなど、その人物の魅力に迫ります。

[今回インタビューした人]
慶應義塾大学
環境情報学部 教授
増井 俊之 氏
ユーザインターフェース研究者。携帯電話に使われている日本語入力支援システム「POBox」の開発者として知られる。東京大学大学院工学系研究科電子工学専攻修士課程修了後、富士通、シャープを経て、ソニーコンピュータサイエンス研究所でPOBoxを考案、開発を手がける。独立行政法人産業技術総合研究所に移り、2006年に米アップルに入社、iPod touch/iPhoneの日本語予測変換システムの開発に参加した。08年に慶應義塾大学 SFC研究所に招かれ、09年4月から現職。著書に『インターフェイスの街角』などがある。

日本語入力システムPOBoxは検索技術から生まれた

Q:増井さんは、ユーザインターフェースの研究者より、携帯電話で使われている日本語入力システム「POBox」の発明者としてのイメージが強いと思います。これはどんな経緯で作られたのですか。

A:ユーザインターフェースの研究に取り組むようになったのは、大学院修了後、就職した富士通からシャープに移り、ワークステーションのユーザインターフェース(UI)関連の開発に取り組んだのがきっかけでした。このころ書いた論文が縁で、ソニーコンピュータサイエンス研究所(SonyCSL)から声がかかり、1996年から9年間在籍しました。この時に作ったのがPOBoxです。

当時研究していた検索システムに「インクリメンタル検索」――1文字入れる度に候補を絞り込んで対象を見つける手法があるのですが、これを使うと綴りが多少間違っていても結果が得られます。いわゆる曖昧検索です。これは文字入力に使えるのではないか、ということを思いついたのが、日本語入力システムの開発に取り組むきっかけになりました。

もう1つ、POBoxの重要なファクターになっているのが、「予測式インターフェース」――ユーザが何をやったかを憶えておき、次の操作を予測する仕組みです。これを使うと、自分の氏名を1度入力すると次回から名字を入れるだけで名前が候補に上がってきます。POBoxは、基本的には曖昧検索と予測インターフェースの組み合わせで出来ているのです。

日本語入力を開発される方は、文法など自然言語処理の研究をされている人が多いのですが、私はその辺はあまり詳しくなくて、何でもいいから簡単に日本語を入れられるものはできないかと思って作ったのです

慶應義塾大学 教授 増井 俊之 氏

Q:POBoxの開発は「仕事」ではなかったということですか?

A:新技術の研究開発という仕事の一貫です。SonyCSLは開発部門では ありませんから、具体的な製品を念頭に置いて開発したわけではありません。逆に商品化には、かなり苦労しました。システムができてから商品になるのに数年かかっています。いろいろな会社、携帯電話会社にも持ち込んだのですが、みんな断られました。いきなり変なことを言っても、なかなかついてきてもらえないのです。最終的にはソニーの方に見いだしていただいて、世に出たのですが。

Q:アップルのiPhoneの日本語入力システムも増井さんの手によるものですね。

A:誤解がないように最初に申し上げておくと、私が開発に携わったのは前の世代のiPod touch/iPhoneに搭載されていたもので、現行機には別のエンジンが載っています。当時、私はSonyCSLから産業技術総合研究所に移っていたのですが、アップルから突然電話がかかってきて、移籍することになりました。この頃アップルではiPhoneの開発が始まっていて、日本語入力が必要だ、誰かいないかということになり、ちょうどそうしたものを作っていた私に声がかかったようです。

まだiPhone OSに日本語のキーボードは入ってなかったので、アルファベット入力でPOBox風のものをいくつか試作しました。もちろん同じものではありません。曖昧検索や予測は一般的な概念ですから、それを使ってやろうということです。製品には「曖昧」は入っていませんが、「予測」を使ってキー操作を少なくできたので、評判は良かったと思います。

「お風呂で映画」を実現するために作った新入力デバイス

Q:慶應大学に移られてからは、どのような研究に取り組んでいるのですか。

「お風呂で映画」を実現するために作った新入力デバイス

A:中心は「実世界指向インターフェース」――仮想世界と現実世界を融合させて、ユーザが本当にやりたいことができるようにしようということです。UIでは昔からどうすればメニューが使いやすくなるかなどがテーマだったのですが、この辺ではもうやることがなくなってきた。代わって今研究者の多くが「実世界」に取り組むようになっています。この分野はアイデアの勝負で、今までなかったようなものが出てきています。

私が今やっているのは、何かの操作をしたいのだけど入力装置が使いにくい場合に、別の装置でできないかということで、実際に物を作ってこれを検証しています。

例えば、台所で料理をしている時にPCの中の料理本を参考にしたい。だけどぬれた手でキーボードやマウスを使うのには抵抗がある。こんな時にどんなインターフェースが使いやすいのか。ぬれた手で触るのが嫌なら、足で踏んで操作できないか、音声やジェスチャーだったらどうだろうか、ということを考えているのです。

試作機で、少しおもしろいものに、風呂場でも使える完全防水の入力デバイスというのがあります。RFIDリーダが内蔵されていて、この上でRFIDカードをマウス代わりにしてワイヤレスでPCを操作できる。お風呂の中でカードを操作して映画を見て、別の部屋にこのカードを持っていくとその続きを見ることができるといった用途を想定しているのですが、実はこれは私自身が、お風呂で映画を見たいと思って作ったのです。

Q:これも商品化を狙っているのですか?

A:できたらいいなと思っていますが、なかなかそこまでいきません。世の中にこの類の製品はありませんから、なかなか乗ってきてくれない。

もちろんこれで商売しようという訳ではなく、商品化されることで、家の中のどこででもコンピュータを使おう、使えるという意識が高まったらいいなと思っているのです。例えばセンサーやWi-Fiなどのデバイスを部屋中に置いたら何かいいことあるのではないか。泥棒が入らなくなるかもしれないし、コミュニケーションが豊かになるかもしれません。インターネットもインフラができたのでいろいろなことをする人が現れました。同じことが「実世界」でも起きてくると期待しているのです。

Q:実世界指向インターフェースが普及すると社会はどう変わるのでしょう?

A:楽になるでしょうね。現状は意味もないことに労力を使っていますから。例えば、JR東日本のSuicaの登場で、切符を買う必要がなくなり、極端なことを言えば犬でも電車に乗れるようになりました。もちろん裏では大変なことをしているのですが、生活はシンプルになった。同じようなことがいろいろな分野で実現すると思うのです。例えば非常にいい認証装置が出てくれば鍵も不要になります。

この他にもいらないものがたぶん沢山出てくる。テレビとかCDとか。私が理想としているのは江戸時代の長屋なのです。ものがほとんどなかった。当時はエンターテインメントもなかったと思うのですが。今は豊かなエンターテインメントがある。だけど、すかっと片づくという風になればと考えているのです。

Q:よくiPhoneのUIは革新的だと言われます。逆に日本の携帯電話は、機能は優れているがUIに難があると評されることが多い。専門家から見てどう思われますか。

A:確かにiPhoneのデザインは洗練されているとは思います。しかしUIに革新的なものは、何もないのですよ。入力方式にしても大昔に研究されたものばかりですし。日本の携帯電話にはみんな入っています。

問題はUI以前の所にあるのではないでしょうか。例えば携帯電話で音楽を購入して聴きたいと思っても、どんなサービスに入ればいいのかさっぱりわからない。どういうしがらみがあるのかわかりませんが、とにかく使いやすくはなっていません。

多分ベクトルが先ほどのSuicaとは逆に向いているのです。ユーザがやりたいのは、あくまでも誰かと話がしたい、情報が欲しいということで、別に携帯電話を操作したい訳ではない。だったら、まずユーザが本当に何をしたいのかを知って、それを実現するための一番いい方法は何かと、考えなければいけない。発想がこうなっていないのです。

Q:iPhoneのライバルと目されるAndroid OS搭載スマートフォンが日本でも相次いで発売されました。AndroidのUIはiPhoneに比べて今1つという評価もあります。対策としてスウェーデンのOcean Observationsという企業にUIのカスタマイズを委ねたKDDIの「ISシリーズ」のような試みも出てきました。これをどうご覧になっていますか。

A:Androidはあくまでプラットフォームで、UIを規定するものではありませんから、上に使いやすいものを載せればいいのです。現状ではその上の部分が今一つなのかもしれませんが、そのうちもっといいものが出てくれば評価は変わってくるでしょう。KDDIの試みもうまくいくといいですね。

Web 上のアイデア帳で発想を刺激する

Q:増井さんのユニークな発想はどこから湧いてくるのでしょう。何か秘訣があったら教えてください。

A:大したことはしていないのですが、1つは不便なことを見逃さない、何とかしたいと思うことが大事だと考えています。これはこういうものなのだと言われると、納得してしまいがちなのですが、それをなんでこうなんだろうと考えることが重要だと思います。

もう1つは発想法なのですが、これは大体パターンが決まっていまして、いろいろな知識やデータを集めて、それをしばらく寝かせなければ駄目らしい。そのうちたまたまどこかで結び付いたりする訳です。これにはどうしても時間がかかります。

だけど、待ってばかりでは芸がない。ならそれを促進するために、コンピュータを使おうと。昔の人はメモやスクラップを使っていたのですが、今はWebという便利なものがあるので、この上にアイデアだとか、予定などをみんな書いています。普通は個別のアプリケーションで管理するスケジュールやToDoなども全部一緒にして、それにいろんな情報をリンクさせておく。スケジュール上の人の名前をクリックすると、顔写真や論文などが出てくる。こうしたものを眺めているうちに、何か思いつくものがあるのではないかと思っているのです。

Q:仕事ばかりでは、いい発想は浮かんでこないと思います。息抜きとか趣味のようなものはお持ちですか

立体パズル

A:海の近くに引っ越したので、よくウィンドサーフィンをやっています。あとはピアノでジャズを弾いたり、山登りを少々。立体パズルにも凝っていまして、米国に行った時などに買い集めてきます。完成品は研究室の入り口に並べてあります。それを見ておもしろいと思った人が寄ってこないかと、まあ撒き餌みたいなものです。

Q:このオンラインマガジンは、技術と人が交わる「場」をテーマにしています。増井さんにとって好きな「場所」はどこですか?

A:最近は自宅(神奈川県鎌倉市)近くの材木座海岸によく行っています。椅子とパソコンとビールを持っていって原稿を書いたり、テーブルを持っていって家内とワインを楽しんだり、富士山やウィンドサーフィンを眺めながら自分の庭のように活用しています。

慶應義塾大学 教授 増井 俊之 氏

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